「次」をどう生きるか―『生殖記』を読んで、自分の現在地を考えた―
朝井リョウさんの本を初めて読みました。
正直に言うと、途中でタイトルの意味が腑に落ちた瞬間があり、その時は少しゾワッとしました。
「なるほど、そういう切り口で人間を描くのか」と。
驚きと同時に、「あ、これ自分の感覚とつながってるな」と思ったのを覚えています。
今回読んだ『生殖記』は、
人と人との関わり、気持ちの揺れ、視線のズレ、
そういった言葉にしづらい部分を、かなり鋭く切り取っている作品でした。
生殖器が語り手、という違和感の正体
この作品は、生殖器が第三者の視点として、主人公の行動や気持ち、人間関係を代弁していきます。
最初は正直、「なんだこれ?」と思いました。
でも読み進めるうちに、
これはただの奇抜さではなく、
- 本能と理性を行ったり来たりする人間
- 自分でもよく分からない感情
- 無意識に選んでしまう行動
そういった人間のリアルを、あえて“距離のある視点”から描くための仕掛けなのだと感じました。
感情にどっぷり浸かるのではなく、
一歩引いたところから自分を見る。
その構造自体が、この物語のテーマなのかもしれません。
主人公の「次」と、自分の「次」
読んでいて一番考えさせられたのが、
**主人公が求め続ける「次」**です。
主人公は、ストイックに次を求め続けます。
でもそれは、必ずしも意味や成長を伴う「次」ではありません。
どちらかというと、
- 人生をとりあえず消化するための次
- 今をやり過ごすための次
そんな印象を受けました。
一方で、自分はどうだろうかと考えました。
自分は「次」を、
- 成長につなげたい
- 意義を見出したい
- できれば成果も感じたい
そう思いながら生きています。
同じ「次」でも、
向いている方向が違う。
ここに、主人公との決定的な違いがあると感じました。
気まずさは、みんな感じている
この作品を読んで救われた感覚もあります。
人間関係の中で生まれる、
あの独特の「気まずさ」。
- 会話が一瞬止まった時
- 相手の反応が読めない時
- 空気だけが先に進んでいく時
作中では、そうした感覚がとても丁寧に描写されています。
読んでいて、「あ、自分のこの感覚は変じゃなかったんだ」と思えました。
気まずさは特別なものではなく、誰の中にもあるものなのだと。
「多様性を認める」は、優しさだけじゃない
印象に残ったのが、多様性に関する描写です。
多様性を認める、という言葉は一見とても優しく聞こえます。
でもこの作品では、それが距離を取るための言葉として使われる場面もあります。
「それぞれ違うよね」
「そういう考えもあるよね」
それは理解でもあり、
同時に深入りしないための線引きでもある。
この視点は、新しい学びでした。
有意義って、必ずしも成長や成果じゃなくていい
この本を通して、
「有意義とは何か?」という問いがずっと頭に残りました。
自分はこれまで、
- 成長しているか
- 成果が出ているか
- 前進しているか
そういう基準で、有意義かどうかを測りがちでした。
でも作品を読み終えて、
必ずしもそこに縛られなくていいと思えるようになりました。
意味がなくてもいい。
成長していなくてもいい。
成果が見えなくてもいい。
それでも、目の前のことに少しでも楽しんで向き合えているなら、
それはそれで十分なのかもしれません。
ゴールのない問いを抱えたまま、生きるということ
この物語は、答えをくれません。
ずっと問いを投げ続ける構造になっています。
だからこそ、読み終わった後もモヤモヤが残ります。
でもそれは欠点ではなく、
人間関係や人生そのものにゴールがないからなのだと思いました。
ならば、
ゴールのない問いに振り回され続けるよりも、
- 自分の好きなことをする
- 自分が納得できる時間を過ごす
- 今日をちゃんと生きる
そちらにエネルギーを使った方がいい。
そんなメッセージを、
この作品から受け取った気がしています。
おわりに
『生殖記』は、
答えを与えてくれる本ではありません。
でも、
- 自分がどこに立っているのか
- これからどう生きたいのか
- 「次」をどう選びたいのか
それを考えるきっかけをくれる一冊でした。
今の自分は、
「次」を自分で見つけていきたいと思っています。
そこに意義を感じながら、成長も楽しみながら。
朝井リョウさんの他の作品も、これから読んでいこうと思います。


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